***  天河の舟  ***






 かけ声と共に差し出された手のひらの中に、握りしめた拳が一つ。
 差し出した拳を見るなり、坂崎は自分の負けを覚った。






「坂崎ー! いつもの焼酎なっ」
 部屋の中からかけられた桜井の声に、
「おー。分かってる。じゃ、行ってくるから」
 一言答えてから玄関のドアをパタンと閉めた。アパートの階段を下りて外に出ると、真冬の冷たい風が頬を撫でた。
「うー……、さみぃ……」
 坂崎はジャンパーの襟を合わせながら小さく呻いた。
 山や海沿いの地方に比べたら、東京の冬はまだまだ暖かい部類に入るのだろう。冬とはいっても今年はまだ雪が降っていないし、天気予報を見れば東京の気温は遥かに高い。けれども、地方都市よりも多少気温が高いとはいえ冬という季節に変わりはない。気温の差はあれど寒いものは寒い。
 坂崎は慣れない寒さに背中を丸めながら、近所の酒屋へと急いだ。
 三人で出し合って集めた小銭がズボンのポケットでシャラシャラと音を立てた。歩くテンポに合わせたリズミカルで軽快な音色も、沈んだ気持ちを慰めてはくれない。
 一時はプロとして認められ華々しくデビューした身だ。他人が書いてくれた詩とはいえ曲も出したし、テレビにだって出た。たしかにあの瞬間、自分たちはプロとして夢を掴みかけた。掴んだはずだった。
 なのに、華々しいデビューの先に待っていたのはこの現実。
 曲を出しても思うようには売れず、与えられた仕事をただ黙々とこなしていく日々。
 ギターを弾いて、三人で曲をコピーして歌ってハモって。あの楽しかった毎日の延長線上に夢見ていたのは、プロとしてデビューしたあとも自分たちのスタイルで歌を歌い続けること。ギターを思う存分に弾くこと。そして、少しでも多くの人たちに、自分たちの歌に共感してもらうこと。
 しかし、今の現実を目の当たりにして、自分たちが夢見ていたものは所詮は夢物語でしかなかったのだと痛感する。
「上手くいかないもんだよな……」
 ポツリとこぼした声は、あっけなく夜の闇へと吸いこまれていく。視界に射し込んできた光に顔をあげると、目的地の酒屋が見えた。店主らしい紺色のエプロンをかけた中年の男が、店じまいの準備でちょうど外に出てきたところだった。
「あっ! すみませんっ」
 坂崎はシャッターを閉められてしまう前にと慌てて店主に声をかけた。バタバタと走ってくる足音に店主も気づいたのか、驚いたみたいに目を丸くする。坂崎は息を弾ませながらぺこりと頭を下げた。
「すみません! 焼酎を一本買いたいんですけど、まだ間に合いますか?」
 吐き出された息が白い。視界の片隅でふわりと夜空に昇っていく。店主は、慌てて駆け込んできた来客に表情を和らげると、愛想よく笑って店の中へと勧めてくれた。
 店に並んでいる焼酎たちを見比べて、できるだけ量があって金額が安めの酒を選ぶ。カウンターで小銭と引き替えに焼酎を一本受け取った。三人でようやく出し合った金があれかと思うと、ちょっとだけ情けない気分になる。
「まいどどうも!」
 店を出る直前にかけられた店主の声。景気づけのような力強い声を背中で受け止めると、情けなかった気分をほんの少しだけ慰められた気がした。
 酒屋で焼酎を入れてもらった白いビニール袋が指先に食い込む。歩くたびにジーパンにこすれて、ビニールがカサカサと音をたてた。人通りもまばらになった夜の道は、自分の足音さえも大きく聞こえてしまうほど静かだった。
 早いトコ家に戻ろう。
 そう思って歩を早めた。しかし、ふと視界に入ってきた景色に思わず足を止める。
 何の変哲もない小さな公園。その先で二台のブランコがひっそりと佇んでいた。
 坂崎は無言のまましばらく公園を見つめ、それからおもむろに園内へと足を踏み入れた。整備されてはいるが土で固められた地面を歩くと、細かな砂利を踏みしめたスニーカーが渇いた音を響かせる。昼間は子供たちの笑顔や歓声で溢れかえる公園も、夜ともなれば不気味なほどにしんと静まりかえっている。一本だけ設けられた街灯が控えめに照らしているものの、園内の隅々までは光が行き届かない。うっすらと照らされたブランコも、すぐ傍にある木が暗い影を落としていた。
 坂崎は、とりあえず焼酎が入った重たい袋をブランコの椅子に置いた。かすかに揺れるブランコから落っことして割ってしまわないよう、手提げの部分は指先に絡めたまま。
 そうして無造作に上空を見上げると、
「……あぁ………」
 思わずため息がこぼれた。感嘆と驚嘆が入り混じった、どっちつかずな吐息。唇からこぼれた白い息は、ふわりと闇夜に舞い上がってそのまま消えていく。

 満天の星空だった。

 綺麗だとか凄いだとか、そういった言葉さえ浮かんではこない。言葉を探す余地さえない。目に入ってきた光景がストレートにため息をこぼれさせる。そんな夜空だった。
 濃紺とも漆黒とも例えられない澄んだ夜空。上空に広がる闇の向こう側まで見通せてしまえそうなほど、不純物など一切見当たらない澄み切った夜空。そこにダイヤのように輝く数え切れない星たち。まるで自分たちの姿を地上の生き物たちに誇示しようとするかのように、彼らは自分の持てる限りの力をもって精一杯に輝いている。
 懸命なその姿に思わず自分たちを重ね見てしまうほどに、彼らの輝きは切ない。
 数多あまたある輝きの中で、人々の目を惹くだけの一層強い輝きを放つ星がどれだけあるだろう。地上から見れば星々の輝きはどれも似たり寄ったりで、どれも一緒に見える。でも一つ一つの星たちは全部バラバラで別のものだし、それぞれが懸命に輝いているのだ。
 自分を見てくれと。自分だけを見てくれと地上の生き物たちに語りかけている。
 まるで今の自分たちのように。
 ミュージシャンの夢を抱く多くの若者たちの中にまみれて、果たして自分たちは彼らを凌ぐ一層強い力で輝くことができるのだろうか。
 人々から見れば、ミュージシャンへの夢を抱く自分たちは上空に輝いている似たり寄ったりな星たちと何ら変わらない。あの中でひときわ目を惹く輝きを見せた者だけが、抱いてきた夢を叶えることができるのだから。
 自分たちに……、今のアルフィーに果たしてそれだけの力があるのだろうか。
 小さなライブハウスを巡るたびに自問自答しては、返ってはこないハッキリとした答え。そして今も、坂崎の心の中での問いかけに答えてくれる者はいなかった。
「……あっ、やっぱり坂崎だ…!」
「うわっ?」
 すぐ近くで声がして思わず飛び上がった。慌てて声がしたほうを振り返ると、見覚えのある人影が二つ。何やら言いながら小走りに駆けてくる。
「こんなトコで何やってんだよ?」
 園内に設けられたたった一つの街灯が、息を弾ませている高見沢を照らした。ほんの少し遅れて桜井も駆け寄ってくる。二人は、驚いたみたいに目を丸くしている坂崎を怪訝そうに見つめ返した。
「出てったきりなかなか帰ってこないから、どっかで酔い潰れてんじゃないかと思って心配したぞ」
「酔い潰れるわけないだろ」
 坂崎は、高見沢に反論すると力なく笑った。愛想笑いに近いかもしれない。作られた笑顔は、しかし薄闇のヴェールが覆い隠してくれたおかげで二人が気づくことはなかった。
「ほら、酒はちゃんと買ってきたし」
「でもお前、酒屋の息子のくせして酒に弱いじゃん」
 今度は桜井が、ブランコに載せられた酒瓶を一瞥して言った。
 家を出る直前まで三人で焼酎を飲んでいたのだ。決して旨い酒とは言い難いが、アルコールが入っていれば酔うことならできる。満腹感にはほど遠い形だけの夕食と、空腹感を紛らわせるアルコール。三人とも酒を胃の中に流しこんだ。
 もちろん坂崎も、酒に弱かろうと二人と同じように酒をあおっていた。
「……だけどオレ、二人ほど飲んでねぇもん」
 坂崎はそう言ってもう一度笑う。
 心の底から笑える気分ではなかった。
 追いかけても、たとえ追いつきそうでも叶わない夢。一度手にしかけたはずなのに、いつの間にかその夢は手のひらからするりと逃げ出してしまった。手の中から逃げてしまった夢をもう一度掴むことなどできるのだろうか。そんなことが果たして可能なのだろうか。
 もし可能なら、いったい次に夢を掴むことができるのは何時になるのか……。
 考えても考えても答えが出ない。考えれば考えるほど、胸の奥には例えようのない焦燥感だけが募っていく。
 いっそ諦めるべきなのか。ふとそんな考えすらも浮かんできてしまって、自分自身の後ろ向きな考えや二人への後ろめたさに嫌悪感すら覚えてしまう。
 坂崎は急に息苦しさを感じて、気を紛らわせようと上空へと目を向けた。
 空には、満天の星たち。無数の星々がきらめいている。雲一つない濃紺の夜空は、宇宙の果てまで見通せてしまえそうだった。無限に広がる天河に畏敬の念を感じた。同時に、この空の下にいる自分たちの存在がとても儚く小さな存在に思えた。
 坂崎が空を見上げたのに釣られて、高見沢と桜井も顔をあげた。今はじめて気が付いたらしく、二人は満天の夜空に驚いたみたいに「おおっ……」と声をあげる。
「すげぇな。綺麗な星空じゃん」
 高見沢がやや興奮したみたいに上擦った声で言う。
「これだけ沢山の星がハッキリ出ていると綺麗だな」
 独り言とも二人に語りかけたのとも判別しがたい口調で、高見沢は夜空を見上げたまま呟いた。それから、ふと何かを思い立ったかのように唇を開くと、
「もしかしてお前、酒を買ったあとココで星を観てたのか?」
「え……?」
「だって、真っ直ぐ帰ってこないでこんなトコで寄り道してただろ。ぼーっと上を見ていたし……」
「……あ……、うん。そう…かも……」
 公園に入ったそもそもの理由なんかない。星を見上げたのも、単に上空できらめく彼らの存在に気が付いて圧倒されただけ。見上げているうちに、懸命に自らを誇示しようと輝く彼らの姿に今の自分たちの姿を重ねてみて、考え事をしていたら二人がやって来たのだ。
 高見沢はどこか曖昧な色を残す坂崎の返事に眉をひそめたが、追及する意思はないらしく再び上空を見上げた。
「……綺麗だな。手を伸ばしたら届きそう」
 高見沢はそう呟くなり手を伸ばした。坂崎は彼の動きにつられて、伸ばされた指先に視線を移す。
 届くわけなどないのに。高見沢のめいっぱい伸ばされた手は、星たちを掴もうとするかのように宙を掻く。虚しく空気だけを掴む指先の動きをぼんやり眺めたまま、坂崎は彼の顔へと視線を移した。
 薄闇がうっすら覆っているにもかかわらず、高見沢の表情は驚くほどハッキリ見えた。坂崎は、そんな彼の表情に思わず息を飲む。
 上空へ真っ直ぐ向けられた視線。挑戦的な強い視線は明らかに夜空できらめく星たちに向けられていた。手で掴むことなどできるわけがないのに。滑稽ともいえる無謀な挑戦なのに、いつかは星を掴んでしまうんじゃないか。そんな錯覚さえ覚えた。挑むような眼差しを向けてうっすら微笑む姿に鳥肌がたつ。
「……星、掴めた?」
 坂崎はポツリと訊ねてみた。知らず知らず緊張していたのか、声がほんの少しだけ掠れていた。高見沢は手を伸ばしたまま「うぅん」と首を傾げると、
「掴めてないけど……、なんかそのうち掴めちゃいそうな予感がする」
 意味深にニヤリと笑ってみせた。伸ばしていた手が下がっていく軌跡を無意識に目で追いかけた。
「こうして見ているぶんには、ホント近くにあるように見えるんだけどなぁ」
 桜井も上空を見上げたままポツリと呟く。彼は手こそ伸ばしはしなかったが、上空を見上げる視線はやはり真っ直ぐで力強かった。今の自分とは真逆で前向きな二人の眼差し。
「……普通に考えたらさ、星を手で掴むなんてできるわけないだろ?」
 高見沢は上空の星々を眺めて小さく笑った。
「だけど、掴むことができないもんだからって諦めたらそこで終わりじゃん? 諦めたら、もう終わりなんだよ」
 まるで自分自身の心の中を見透かされていたかのような彼の言葉にハッとする。高見沢は、そんな坂崎に気づいた様子もなくただ真っ直ぐ星たちを見上げていた。
「どんなに無謀に見えるチャレンジでもさ、諦めないかぎり可能性だけは広がってるもんだろ? でも諦めちゃったら、たった一握りの可能性すらなくなっちまうんだよ」
「……どんなに難しくて先が見えないチャレンジでも、高見沢ならチャレンジする?」
「……………………」
 坂崎が訊ねると、彼は考え込むように黙りこんだ。しばらくの沈黙のあと、
「…………俺さ、そんなに根気があるほうじゃないから」
「え……」
 予期していた言葉とは裏腹な彼の消極的な言葉に眉をひそめる。しかし、坂崎の反応は彼にとっては予測できていたことらしく、高見沢は可笑しそうに笑った。
「だから、自分が本当に好きなコトにしかチャレンジし続ける自信はないなぁ」
「本当に好きなことって……」
「うーん……、だから今はアルフィーだろ。自分が本気で好きだって思っていることでもなけりゃ、あのときにとっくに諦めていたかもしれない」
 デビューしたにもかかわらず、華々しいステージから一転して小さなライブハウスを転々と巡る生活。
 なぜこんなことに……。坂崎だけでなく、きっと高見沢も桜井も自問自答したに違いない。もしかしたら今でも、言葉や態度に出さずとも自分自身に問いかけ続けているのかもしれない。それでも、また夢を……今度こそ手の中にしっかりと掴める日が来ることを信じて毎日を送っている。
 好きでなければ、こんな苦しい生活を続けてはいられない。
「でもさぁ……、そういうもんだろ?」
 逆に訊ねられて、坂崎は一瞬言葉に詰まった。なんて返事をしたらいいのか、うまく頭の中に言葉が浮かんでこない。
「仕事だからとか、そんなの一切抜きにしてさ。俺は純粋にギター弾いたり歌ったりすることが好きだから。だから、この好きなことを続けられる方法がミュージシャンになることなら、俺はやれるだけやって夢を叶えたいと思うし」
 坂崎が見つめる中、彼は一言一言を大事そうに言葉に替えて紡いでいく。自らの思いを込めて紡ぐ言葉は、まるで歌のようでもあった。
「ミュージシャンになるのなら、お前らと一緒にアルフィーっていうバンドで続けたいと思っているしさ」
 高見沢はそう続けると、坂崎と桜井にニッと笑いかけた。
「それに、一人っきりだったら挫折したかもしれないけど、二人がいるからな」
 向けられる笑顔と純粋な言葉たち。
 胸の奥にわだかまっていた言い知れない不安や焦燥感が、不思議なことにどんどん消えていくのを感じた。歌が聴く人々の心の奥へ染み渡っていくかのように、思いを込めた一語一句もまるで歌のように坂崎の心の奥底を癒していってくれる。
「……だから頑張ってる。簡単に叶うような夢じゃないとは思っているけど、こっちが諦めないかぎり追いかけっこはいつかは終わるもんだぜ?」
 「な?」と声をかけられて、坂崎は無意識に頷き返していた。
 いつ夢が叶うのか。果たして再び夢を掴む日がやって来るのか。先は見えないし終わりも見えない。もし未来を見る力があれば安心するなり諦めがつくなりできたかもしれない。けれども、当然ながら三人ともそんな力などない。
 だから、見えない未来に一喜一憂する。
 けれども、同じ夢を共有して前だけを見続ける仲間がいるかぎり、自分も前を見続ける勇気を分けてもらえる気がした。どんなに悩もうと落ち込もうとも、こうして辛さや悔しさを共有できる仲間が傍にいて勇気づけてくれる。すぐ傍に彼らの存在を感じられるだけで心強い。
「……まぁ、いざとなったら、そのときはそのときだって」
 それまで聞き役に徹していた桜井がおどけた口調で言った。彼は口元に笑みを浮かべて二人を眺めていた。
「先のことをいくら心配してもしょうがねぇしさ。人間、なるようになるもんだよ」
「うっわぁ……オヤジくせぇ」
「あ? なんだと?」
 すかさず高見沢が茶化す。桜井は聞き捨てならないとばかりに眉間に皺を寄せた。
「だいたいお前だって、似合いもしない小洒落た台詞を長々と喋ってたじゃないかよ」
「なんだよ、似合いもしないって!」
「口説き文句みたいで聞いているこっちが恥ずかしかった」
「…………口説いてたんだよ」
「えっ、口説いてたのっ?」
 夜の公園に二人の笑い声が響く。重たい薄闇を払拭してしまいそうな明るい笑い声に、思わず坂崎も笑顔を誘われた。
 一人きりであれほど沈んでいた気分が、今はウソのように軽い。
 坂崎は二人の笑い声に包まれながら、そっと夜空へと手を伸ばしてみた。
 視線の先にあるのは、無数の星たち。指の隙間から見える星たちは掴めそうなほど近い。
「どう? 掴めそう?」
 高見沢が気づいて訊ねてくる。坂崎は、夜空にかざしていた手をぎゅっと握りしめた。
「……うん。掴めそうな気がする」
 手のひらの中で星が一つ、キラリと輝いた気がした。

end

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【albireo】 track 01 : 天河の舟
text by : Natsuki Takizawa (from SandHeaven)
image from : 『天河の舟』 (by THE ALFEE)