***  CRASH!  ***

 きっかけはじつに些細なこと。
 けれども何かをするきっかけなんてものは、そんなものなのかもしれない。

「部屋の片付けをしていたら、子供の頃に正月になると遊んだ将棋が出てきたんですよ。数十年ぶりに息子と遊びましたよ」

 何気ない一言。
 スタッフの一人が口にした休日の何気ない出来事。
 でも何気ないことほど、何かのきっかけで大きく膨れあがるものなのだ。





「帰ってきた?」
 ドアを開けるなり高見沢が声を弾ませて訊ねてきた。桜井は、ペットボトルに口をつけたままの体勢でドアを振り返った。ちょうどミネラルウォーターを飲もうとした矢先だった。高見沢の質問に答えてやるには口を離さなければならない。でも水は飲みたい。ささやかな葛藤と逡巡。どうしようか考えあぐねているうちに、
「まだだよ。そんなすぐに見つからないって」
 向かいのソファで意味もなくゴロゴロと体を動かしていた坂崎が、半身を起こしながら代わりに答えてくれた。
「えー、まだなの? そろそろ戻ってきても良さそうじゃない?」
「お前が無理な注文するからだろ。文句言うなよ」
 桜井は水を飲み終えると、ボトルのキャップを締めながら高見沢をたしなめた。子供のように頬を膨らませた高見沢のその姿に、坂崎が可笑しそうに笑い声をたてる。彼はまたソファに横になり、無意味にゴロゴロと体を動かすのを再開した。
「それ……、何してんの?」
 桜井が訊ねると、彼は「んー?」と曖昧な返事を返してくる。
 スタジオに休憩用に置かれたソファはお世辞にも広くも大きくもない。大人が一人寝転がってぴったりな長さ。奥行きは、寝返りを打てば転げ落ちる可能性あり。そんな限られたスペースで坂崎は器用にも、寝返りを打つみたいに左右に体を転がしてみたり、かと思えば片足を交互に挙げてみたりと妙な動きを繰り返している。
 そんなことは気にせず見なかったふりをしろと言うほうが無理だ。気にしないようにしようと努めるものほど、かえって気になる。見なかったことにしようとするものほど意識してしまう。これはきっと人間の自然な心理なんだろう。
 坂崎の奇妙な動きは桜井の視界にも当然のようにしつこく入ってきたし、この動きに何か深い真意があるのかも気にかかる。どうせ九割強はなんの意味もなさそうだが、意味のないものほど、余計に気になってしまうのもこれまた人間の自然な心理。
「桜井は、何してるように見える?」
 逆に訊ねられて答えに窮する。分からないから訊ねているのだ。分かっていたら訊ねたりはしない。そして理解できないからこそ気になるのだ。これはきっと、雑学を仕入れるときの心境にも似ているかもしれない。
「分かんねぇよ。ヘンテコな動きにしか見えない」
 桜井が感じたことを素直に伝えると、坂崎はほんのちょっぴり情けない表情を返してきた。
「ストレッチだよストレッチ」
「ストレッチぃ? それが?」
「そう。レコーディング続きでスタジオからあんまり外に出てないし。運動不足だからさ」
「そんなストレッチ、テレビでやってたのか?」
「まさか。オレのオリジナル」
 坂崎は冗談とも本気ともつかない口調で笑いながら答えると、今日はおしまいとばかりに今度こそソファから体を起こした。すぐ傍にあるテーブルに置いておいたペットボトルを手に取ると、喉が渇いたらしく水を一気にあおっている。
 桜井は納得がいかないという表情で向かいの席を眺めていたが、
「遅くなりましたっ」
 ドアを開ける音と重なって聞こえてきた声に反射的に目を向けた。スタッフが一人、息を弾ませながら小走りで部屋に入ってくる。
「おっ。待ってたよ!」
 高見沢が嬉々とした様子でスタッフからビニール製の買い物袋を受け取る。真っ白な袋には、桜井も見聞きしたことがあるショッピングセンターのロゴマークが見えた。
 突拍子もない無理な注文にもめげず、急いで調達してきたスタッフの努力に頭が下がる。実際、本気で頭を下げなければならないのは桜井ではなく、言い出しっぺの高見沢のほうなのだが。
 桜井と坂崎とスタッフが見守る中、高見沢は袋から紺色の長方形の箱を取り出した。さらに袋の中からはもう一つ、片手にすっぽり収まりそうな大きさの木箱も出てくる。
「よくまぁ見つけてきたなぁ…」
 そう呟きながら、桜井はテーブルに置かれた紺色の箱を開けて中のものを引っ張り出した。二つに綺麗に折りたたまれた厚い木の板を広げると、これまた綺麗に整列した正方形のマス目が視界を埋める。ほんのり香るのは、真新しい木の香り。そして高見沢が開けた小さな箱から出てきたのは、

 ジャラ…ァ……

 マス目たちの上に無造作にばらまかれた木の欠片たち。
 乱雑なばらまかれ方とは対照的に、木の欠片は一つ一つが細長い五角形の形をしていた。面の部分には筆で書かれた達筆な文字が二文字。そのうちのいくつかは両面に文字が入っていた。
「うわぁ……懐かしいなぁ」
 坂崎もどこか興奮の色を含んだ声をあげた。五角形のうちの一つを手に取って目を細めている。
「オレも子供の頃やったよ。詰め将棋だけじゃなくて、他にもいろんな遊び方ができるんだよな」
 そう言いながら坂崎が指先で木の感触を楽しんでいるのは「飛車」の文字が書かれた駒。
 きっかけはじつに些細なこと。
 けれども何かをするきっかけなんてものは、そんなものなのかもしれない。
『部屋の片付けをしていたら、子供の頃に正月になると遊んだ将棋が出てきたんですよ。数十年ぶりに息子と遊びましたよ』
 何気ない一言。
 スタッフの一人が口にした休日の何気ない出来事。
 でも何気ないことほど、何かのきっかけで大きく膨れあがるものなのだ。そしてこの何気ない一言に驚くほど食いついたのが、高見沢だった。
「いいなぁ、将棋! なぁなぁ、久しぶりに将棋でもやってみないか?」
 直感的な好奇心と思いつき……そして場の勢いと。高見沢の突然降って湧いたような好奇心のおかげで、スタッフはわざわざ将棋のセットを買いに走らされたのだ。
 もっとも、レコーディング真っ最中の張り詰めた状況のときなら将棋をやろうなんて話にまでは発展しなかっただろう。気分転換も大事だが、息を抜きすぎるとせっかくの集中力も途切れてしまう。ライブのときと同じく、レコーディングでも適度な一定の緊張感は必要不可欠なのだから。
 レコーディングがようやく一段落したあの瞬間だったからこそ、スタッフが口にした日常の何気ない一言もここまで発展することができた……いや、発展してしまったのだ。
 桜井も将棋盤にばらまかれた駒の一つを手にとってみた。指先に伝わるのは木の感触。けれども、子供の頃に触れた感触とはどこか違う。そして色合いも。子供の頃に触れた将棋の駒はもっと使い込まれた感があった。だから色合いもこんな真新しい白さが際だつ木の色ではなくてもっと古びた焦げ茶色だったし、恐らくこんなに軽くはなかっただろう。それはきっと、使い込まれてきたモノだけが持つ特有の感触。
「たしかにいろんな遊び方があったよな。はさみ将棋とかまわり将棋とか。山崩しとか将棋倒しとか」
 桜井も子供の頃に遊んだ将棋遊びを思い出す。
 道具こそ将棋盤や将棋の駒を使ってはいても、ゲーム自体は将棋からはかけ離れたもの。ルールも単純明快で、本将棋や詰め将棋のように難しくもない。子供でも気軽に楽しめる遊びなだけに、一度ゲームを始めようものなら真剣勝負だった。
「桜井さぁ、これならイケるんじゃない?」
 ふいに坂崎から声をかけられて、桜井はきょとんとした顔をした。見れば坂崎は、なにやら意味深な笑みを満面に湛えている。
 目が何か企んでいる。この細い目が!
 桜井は瞬時にそう察した。
「なにが?」
 桜井は慎重に訊ねてみた。すると彼は軽い笑い声をたてて、
「なにがって、ほら。将棋ならこの前の春のリベンジとか果たせるんじゃないかなぁって」
「春の……、ああ……」
 言われて思い当たったのは、以前、春に三人で遊んだゲームだった。
 本来の目的は、春ツアーのパンフレットの撮影。けれども、春の合宿と称して行われた写真撮影の舞台に用意されていたのは、懐かしさや好奇心をそそられるゲームだった。
 子供の頃に遊んだサッカーゲーム。何本もの棒に繋がったサッカー選手の人形を操って、相手のゴールにボールを叩き込む。これは器用な坂崎がダントツで強かった。
 ボクシングのゲームもあった。素早くパンチを繰り出すことで、グローブの先に繋がっている人形が殴り合う。これはとっても体力勝負。ただ闇雲に腕を振り回すだけでは相手の人形は倒れてくれないところが良い感じにニクらしい。運動不足解消にももってこいのゲームだった。
 そしてもう一つ。体力勝負とは正反対で集中力を問われるゲームもあった。ジェンガという積み木のようなゲームで、交代で一本一本棒きれと引っこ抜いては上に積み重ねる。この途方もなく延々と続きそうな作業は、いつバランスが崩れて積み木のタワーが崩壊してもおかしくないスリルがある。全体のバランスを考えて慎重に棒を引っこ抜いていくのが普通なのに、高見沢はこれでもかという大胆な引っこ抜き方をするにもかかわらず一番強かった。逆に慎重に慎重を重ねて棒を抜いていった桜井が惨敗したのだから、この理不尽さにもの凄く納得がいかないゲームでもあった。
 結局、春の合宿で桜井はこれといった勝負強さを見せることもできなかった。特にジェンガで惨敗したことは、後々の春ツアーでもMCのネタにされたりと二人には好き勝手やりたい放題にからかわれ、苦汁をなめた思い出もある。
「高見沢と将棋でひと勝負してみたら?」
「え? 将棋で?」
「そう。春のリベンジ」
 坂崎はじつに軽く言ってのける。対する桜井は渋い表情を作ってみせた。
 たしかに春ツアーのパンフレット撮影では惨敗した。ゲームではこれといった活躍も見せられなかったし、ツアー中はずっと二人からゲームのネタでからかわれた。
 リベンジするには絶好のチャンス。
「なぁ、高見沢。桜井と将棋で勝負してみたら?」
 坂崎は、桜井にだけでなく高見沢にも勝負を持ちかける。あくまでも勝負するのは桜井と高見沢の二人。自分はすっかり傍観を決め込んで見物人の気分。
「桜井が勝負すんの? 別にいいよ」
 高見沢は特に気にする様子もなく二つ返事で頷いた。
「春のときのリベンジだって?」
 二人の会話をしっかり聞きつけていたらしい。彼はそう付け足すと悪戯っぽく笑ってみせた。桜井は将棋の駒をそれぞれの持ち分に丁寧に分けながら、
「そういうことになったみたい。でも、やるからには負けねーからな」
「そりゃ俺の台詞だって。……桜井は将棋は強いんだっけ? なにで勝負する?」
「そうだなぁ……。それじゃあ……」
 かくして、春のリベンジを兼ねた勝負の幕は切って落とされた。


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 バラ…ァ……

 軽い音を立てながら、将棋盤に落ちていく四つの駒。駒は四方八方に好き放題に散らばって、三人の視線を集めた。「金将」の文字を天井に向けたものや、無地の背中を見せているもの、四つのうちの一つは勢い余って危うく将棋盤から落っこちかけている。
「おーっ、危ない。セーフだセーフ!」
 桜井は自分が振った駒たちが将棋盤にかろうじて居留まってくれたことに、内心ほっと胸をなで下ろす。
 桜井が勝負として選んだゲームは「まわり将棋」だった。
 まわり将棋は、将棋盤を使った双六のようなゲームだ。サイコロの代わりに使うのは四つの「金将」の駒。これを交互に将棋盤の上で振り、四つの駒の向きで自分の持ち駒の進むマスの数を決める。文字を天井に向けた仰向けの状態が一歩、うつぶせはゼロ。横に寝転がった状態は五歩で、立ったままの状態は十歩。そしてなかなか出ない逆立ちの目は、二十歩と大盤振る舞いだ。四つの駒すべてが仰向けの状態の場合は、四歩進めるうえにもう一度駒を振れるというお得な特別ルールもある。ちなみに四つのうち一つでも他の駒と重なり合ってしまったり、逆に一つでも将棋盤から落ちてしまった場合はヒトコマも進めないという厳しいルールもある。
 持ち駒は将棋の駒の一番弱い駒「歩」からスタートし、将棋盤の一番端っこのマスを一周したら次は「香車」の駒に取り替えてもう一周を目指す。これを「王将」の駒まで続け、最終的に早くあがったほうが勝ちになるというゲームだ。
 サイコロ代わりの駒の振り方に多少のコツは必要だろうが、他はこれといった技術も必要がない。あとは運のみ、神頼み。
 これならジェンガのときとは違って勝てる自信あり。
 桜井は駒を進めながら、我ながら良い選択だったと心の中だけで自画自賛してみた。
「せっかくだからさぁ、なんか賭けようか?」
 坂崎が、いつの間にか楽屋の奧から引っ張り出してきたギターを弾きながら、ちゃっかり提案してくる。生ギターが奏でるゆったりとしたBGMに耳を傾けつつ、
「いいけど。じゃあ何を賭ける?」
 桜井は二人に訊ねる。
 賭けるとしたらせいぜい自販機の飲み物かコンビニで調達してくる菓子類か。
「俺はコーヒー飲みたいな」
 高見沢は、待ってましたとばかりの勢いで早速自分が欲しいモノをアピールする。分かりやすい性格に桜井は思わず笑うと、
「じゃあ、飲み物を賭けて。おれもコーヒーな。坂崎は?」
「オレは何にしようかなぁ……」
 坂崎はゲームに参加していないのだから、勝負で負けたほうが坂崎の分も奢るハメになるのだろう。ちょっとした罰ゲームのオマケつきなゲーム感覚。金額的には些細なものだしたいした負担にはならないが、二人分を奢るとなるとこれはますます負けられない。
 もっとも、春のリベンジを兼ねたこの一戦。罰ゲームや奢り以前に、意地をかけた戦いでもある。ちょっぴり大げさかもしれないが、本人たちはいたって真剣。たかがまわり将棋……ゲームだ遊びだ、といえどももはや立派な真剣勝負なのだ。
「次の対戦までに考えておく」
 坂崎がそう答えた直後、ジャラ…と将棋の駒が将棋盤に落ちる音が響いた。反射的に将棋盤に目を向ける。高見沢がサイコロ代わりの四つの駒を振ったところだった。
 将棋盤に散らばった四つの駒が指し示したのは、七。横向きに立った駒が一つと裏返ったのが一つ、そして文字が見える仰向けの駒が二つ。ごくごく平凡なパターンだ。桜井はほっと胸をなで下ろす。
「高見沢なだけに、なんかやらかしそうだよなぁ」
 桜井の心の奥底を読み取ったかのようなタイミングで、坂崎が呑気な口調で言う。高見沢は自分の駒を七つ分だけ進めると、
「なんだよ。なんかやらかしそうって」
 坂崎を上目遣いに見た。口元には苦笑い。高見沢自身も、坂崎のからかうような口ぶりや言葉を密かに楽しんでいるらしい。桜井は将棋盤から拾い集めた「金将」を手の中で弄びながら、坂崎の言葉に深く頷いてみせた。
「おれもそう思うわ」
「あ、桜井まで! 二人してそこまで言うか?」
「だってなぁ……。読めない行動をするヤツなだけに、なにかやらかしそうで怖いよな?」
 桜井はそう言いながら駒を振った。将棋盤上に出たのは、またも平凡な目だった。
 たまにはガツンと奇跡的な目が出ればいいなと心の中で思ってはいるものの、現実は厳しい。そうそう簡単に奇跡なんて起こるわけがない。めったに起きないからこそ奇跡なのだ。そんなにしょっちゅう大盤振る舞いで奇跡が起こっていたら、奇跡の希少価値自体が危ぶまれてしまう。そして、ありがたみも薄れるというもの。
 分かってはいるが、駒を振るたびに大きな目が出ないものかと願ってしまう。
 カミサマ、どうか大きな当たりを一つお願いします。
 困ったときの神頼み。密かに心の中だけで願掛けしてみる。
 桜井が駒を進め終えると、今度は高見沢が代わりに「金将」を手に取った。将棋盤に振る。やはり出たのは平凡な目。今回は危うく将棋盤から落っこちそうになる駒も出てきて、高見沢がちょっとばかり焦った。
「危ねー。落っこちるかと思った」
 そう言って苦笑しながら駒を進める。
 桜井も高見沢もペース的には似たり寄ったり。持ち駒の進み具合もさほど差は開いていない。
 この膠着状態からいったいどちらが先に抜け出すのか。いや、抜け出せるのか。
 桜井は「金将」の駒を手の中でカチャカチャと転がしながら思った。
「バックミュージックでもつけようか?」
 坂崎がいつの間にかギターを持ってきて言った。
 …………来た!
 いずれ来るかもしれないと予期していたのは、どうやら桜井だけではなかったらしい。坂崎からの提案に、高見沢もほんの少し眉根を寄せた。
「なんの曲?」
「うーん? そうだねぇ……たとえば」
 坂崎は何度か試しに軽く弦を爪弾いて音を確かめてから、曲を弾き始めた。どことなく一つ一つのコードを確認しながら慎重に弾いているのは、慣れていないせいか。即興でコピーしているらしい曲は、ときどきコードを間違ったりして弾き直したりもしたが、サビの部分を聞くやいなや彼がなんの曲を弾いているのかすぐに分かった。
「負けないでと言われてもなぁ……」
 桜井は困ったみたいに笑いながら、駒を将棋盤の上で振る。四つの駒が将棋盤を叩く音が曲に重なった。相変わらず平凡な目が出たが、一つだけ駒が立っていたのが目に留まってちょっとだけ嬉しくなった。
「そりゃあ負けたくないのはやまやまだけど」
 桜井はそう相づちを打ちながら自分の駒を進める。十三……だいぶ進んだ。
「じゃあこれは?」
 坂崎は、入れ替わりに高見沢が四つの駒を手に取るのを目で追いかけながら曲を切り替える。軽快なリズムに乗って紡ぎ出された曲に、桜井と高見沢はほぼ同時に吹き出す。
「誰が受験生だよ?」
 前奏を聴いただけで曲のタイトルも歌詞も分かる。桜井は可笑しくなって思わず突っ込んだ。高見沢が笑いながら駒を振る。
「あっ!」
 勢い余った駒は将棋盤を滑り落ちて、向かいに座る坂崎のほうへ転がっていった。
「お前なぁ、やめろよ! 調子狂うだろうがっ」
 高見沢は滑り落ちてしまった駒から坂崎へと視線を移して文句を言う。対する坂崎はしてやったりとばかりにニヤリと笑った。完全に確信犯だ。
 調子っぱずれな曲を爪弾きながら坂崎はわざとらしく小首を傾げる。
「えー? でもこれだってれっきとした応援ソングだぜ?」
「受験生ブルースと将棋のゲームのどこに関連性があるんだよっ?」
「頑張れって応援したくなる……、」
「その歌は応援ソングじゃなくて、受験生の哀愁をうたった曲だろ」
「だから、頑張れって応援したくなるような気持ちになるでしょ?」
「…………歌以前の問題じゃん」
 高見沢は唇を尖らせてポツリと呟いた。坂崎が満足そうに声をたてて笑う。二人のそんなやり取りを横目に見ながら、桜井は今がチャンスと張り切った。
 ここで一発大きな当たりを出して高見沢に差をつけたい!
 一発逆転の構図が頭の中に浮かび上がる。言うまでもなく、頭の中で描かれたのは華麗に成功した一発逆転の瞬間。
「……あ」
 けれども、目に飛び込んできた光景は張り切って将棋盤から滑り落ちていく二つの駒。ちょっと待て、と止める間もない。将棋盤の上に居留まってくれたのは四つのうち二つだけだった。張り切りすぎ。
「あーあ、桜井のも落ちた。二人とも力入れすぎだろ」
「やったっ!」
 坂崎が愉快そうに笑い、高見沢は発した言葉どおりそれはもう嬉しそうに手を叩いて喜ぶ。遠慮のえの字もなくここまで素直に喜びを態度で表されてしまうと、もはや桜井も笑うしかない。
「せっかくのチャンスだったのに」
 桜井はこぼれ落ちた駒たちを悔しそうに眺めた。回収されていく駒を目で追いかけると、今度は高見沢が一発逆転を目指して手の中で四つの駒を転がした。つい一分前の桜井と同じく、気合い十分。目が合うなり彼はニヤリと笑い、
「待ってろよ、桜井。一発逆転を狙うからな!」
「狙わなくていいって。地味に行こうぜ?」
「やだよ」
 桜井の相づちは一笑に付された。そもそも、高見沢に地味に行けということ自体が無理というもの。
 高見沢は今度こそとばかりに狙いを定めて駒を振った。四つの駒が将棋盤の上を転がる。三人が見守る中、駒たちは将棋盤から落ちることなく居留まった。しかも、
「おおっ、凄いのが出たよ」
「げっ」
 坂崎が興奮気味に、そして桜井は四つの駒を見て絶句した。
 起きてしまった。奇跡が。それも、桜井にではなく高見沢のほうに。
 カミサマ、奇跡を起こす相手を間違ってます。
「おー、すげぇ! ホントに一発逆転な目が出ちゃったよ」
 高見沢は子供のように無邪気に笑って喜んだ。
 四つの駒は一つが横に寝転がり、二つが仰向け。そしてもう一つは上下逆さまに立っていた。子供が描く家のような形の五角形の将棋駒。この屋根の部分の片側を将棋盤につけての器用な逆立ち。ちなみにこの目が表す数字は、二十。
「……二十七か。一気に駒を進めたねぇ」
 あくまでもゲームを傍観している身の坂崎は、じつに呑気な口調で言った。どちらが勝っても負けても飲み物を奢ってもらえることに変わりはない。痛くもなければ痒くもない。ただただ楽しいばかり。
「桜井、どうする? ピンチだよ」
 明らかにこの事態を面白がっている坂崎から訊ねられて、桜井は言葉に詰まった。言われなくてもピンチなのは分かっている。桜井自身が一番よく身に染みて分かっている。分かってはいるが、差が広がってしまったのだからどうしようもない。高見沢の進んだ駒を指先でツツ……と後退させることはできるが、それをやったら確実に怒られるだろう。当たり前だ、自分がやられたら絶対に怒る。ゲームといえども勝負の世界は厳しい。
「……まだ始まったばかりだし終わってみなけりゃ分からないだろ」
 桜井は苦虫を噛み潰したような表情で言い返した。
 ありがたいことに、二人の駒はまだ「桂馬」。これから先に「銀将」「角行」「飛車」「王将」と控えている。まだまだ先の展開は分からない。
 こんなところで諦めてなるものか。
 桜井はサイコロ代わりの「金将」を集めると手の中でカラカラと転がした。
「あのときのジェンガじゃ負けたけど、まわり将棋じゃ負けないからな」
 桜井が言うと、二人は同時に顔を見合わせた。一瞬驚いたような表情をしたものの、すぐに楽しそうに目を細める。
 勝負はこれから。先はまだ長い。これから先も差が開く一方なら厳しいが、縮められる可能性は十分に残されている。
 桜井は「勝負!」とばかりに駒を将棋盤へと振った。
 将棋盤を叩く駒たちの音と、坂崎が爪弾くギターの音が耳に心地よく調和する。
 三人の視線が将棋盤に集まる。気合い十分に振った駒は、果たして吉と出たのか凶と出たのか。
 勝負の行く末は気まぐれな四つの駒のみぞ知る。


end

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【albireo】 track 03 : CRASH!
text by : Natsuki Takizawa (from SandHeaven)
image from : 『CRASH!』 (by THE ALFEE)