***  宛先のない手紙  ***

 ドアを開けた直後、彼はまるで急ブレーキでもかけたかのように慌てて足を止めた。
 当たり前のように次の一歩を踏み出そうとしていた足も、すんでの所でぐっと止まる。勢いのまま危うく前のめりになりそうになったが、高見沢はかろうじて体勢を立て直した。
 誰かに呼び止められたわけではない。かといって、目の前に何か危険なモノがあったわけでもない。なのに瞬間的に足を止めてしまったのは、もしかしたら本能的な反射だったのかもしれない。
 人間、予期しないモノを見ると一時的に体の動きが止まるものらしい。
 彼の周りの時間が止まってしまったのか、それとも予期せぬ出来事に脳がフリーズを起こしたのか。ほんの僅かな時間とはいえ、そんな錯覚を覚えてしまうほど高見沢はものの見事にぴたりと静止していた。
 高見沢は、ただでさえ大きな双眸を瞠ったまま部屋をひと通り見回した。
 その視線の先に変わったモノは見あたらない。当然、不審な人物がいるわけでもない。いや、むしろ不審な人物どころか部屋には誰もいなかった。
「……あれぇ……?」
 高見沢は部屋を眺めながら戸惑った声をあげた。
 いつものように部屋にいると思っていた。
 ドアを開ければ、二人揃っていなくても大抵どちらかが部屋にいる。椅子に座って新聞を読んでいるか、ギターを弾いているか、はたまた飲み物を飲んでいるか。くだらない話をして笑っていることもあれば、ときどきテーブルに突っ伏して居眠りしているときもある。そして、高見沢がドアを開けて遅れて部屋にやって来ると、彼らも当たり前のようにこちらに視線を投げかけてくれる。
 そこに挨拶なんて言葉のやり取りがなくても、目が合うたったそれだけで十分だった。もう数え切れないほど繰り返してきた、三人の間だけで交わされてきた自然なやり取り。それが挨拶代わりになっていた。
 だから高見沢は、ドアを開けた瞬間にはいつものように二人の姿を探していた。彼らから向けられる眼差しを真っ直ぐ受け止めるために、二人の姿を無意識に探していた。
 けれども今、ドアを開けた先に二人の姿はない。
 居て当然、あって当然の姿を見つけられず、高見沢はがらんとした部屋に戸惑った。
 躊躇ためらいながらも部屋に足を踏み入れてみる。傍にマネージャーなりスタッフが居れば彼らの所在を訊くこともできたが、助けを求めるように彷徨わせた視線の先に人影は映らなかった。
「……なんだよ……、今日は俺のほうが早く着いちゃったわけ?」
 珍しく楽屋に一番乗りしたことに困惑しつつも、部屋の中をざっと見回す。すると、すぐに今しがたの自分の発言は間違っていたことに気づかされた。
 部屋の片隅にひっそりと並べて置かれた荷物に見覚えがあったからだ。
 坂崎と桜井の私物のバッグ。持ち主の二人同様、いつも楽屋で見かける馴染みのカオだ。バッグがここに置かれているということは、坂崎と桜井の二人は既に楽屋に来ていたということになる。
 バッグを見た瞬間、思わずほっと安堵の息を吐いた自分がいることに、高見沢はほんの少し驚いた。それから、我知らずそんな行動を取ってしまった自分に照れくさそうに苦笑いする。
 楽屋を出てどこへ行ったのか。知るすべもないが、待っていればいずれ戻ってくるだろう。
 高見沢は、肩にかけていた自分のバッグを彼らのバッグの隣へどんっと降ろした。それから、部屋に設けられたクーラーボックスへと歩み寄る。
 新幹線を降りてすぐに車に乗ってしまったせいか、飲み物は一切口にしていない。ばたばたした移動の最中に飲んだのは、新幹線で口にしたコーヒー一杯だけ。喉の渇きはあまり感じなかったが、部屋に一人だけという手持ち無沙汰や到着したばかりという環境も手伝って、妙に飲み物が恋しくなる。
 クーラーボックスを開けてみると、適当に詰め込まれた多種多様なドリンクたちが氷の海で泳いでいた。坂崎が喜ぶ缶ビールをはじめ、ミネラルウォーター、スポーツドリンク、ウーロン茶、缶ジュース、缶コーヒー……。
 高見沢はボックスの中に手を突っ込んで無造作にがらがらと中をかき回した。まだ溶けきっていない氷塊が浮かぶ氷水に手を入れた途端、じんと痺れるような冷たさが手に伝わってくる。
 いくつかのドリンクを物色して、ようやく引き抜いたのはスポーツドリンクだった。
 早速フタを開けて一口飲む。長い時間を氷の海に浸かっていたせいか、取り出したスポーツドリンクはもの凄く冷えていた。流し込んだ途端に喉を冷たい感触が通り過ぎていく。
 立ったままの体勢でもう一口飲んでから、高見沢はクーラーボックスの傍に置かれていたタオルでボトルと濡れた手を拭いた。それから、座って二人を待っていようとテーブルへと歩いていく。
 何を思うでもなくテーブルの上を走った視線がある一点で止まった。
 高見沢は眉をひそめながらも、テーブルに近づくなりその一点へと手を伸ばした。
 テーブルに置かれていたのは、一枚の紙だった。
 誰かが意図して置いたのか。それとも、しまうのを忘れてしまったのか。もしかしたら何の意味もなく、テーブルに無造作に置かれていただけかもしれない。
 けれども、テーブルに放られていた紙は高見沢の興味をひいた。
 椅子を引くため背もたれに触れるはずだった指は、テーブルにある一枚の紙切れを拾い上げる。
 くたびれた薄茶色の紙だった。きっと元々は白い便せんだったのだろう。相当の年数が経っているのか、白かった紙も薄茶色く変色してしまったらしい。紙に印刷されていた飾り気のないシンプルな罫線も、時間の経過とともに色あせていた。
 よほど乱暴に扱われたのか。至るところに刻まれた皺は、きっとぐちゃぐちゃに丸められでもした痕跡なのだろう。一度は丁寧に伸ばされたみたいだが、それでも痛々しいまでに刻まれた皺やところどころ破けた跡が目を引いた。
 高見沢は指先で皺の一つをなぞってみた。ボロボロの便せんは今にも朽ちてしまいそうで、きっと長いあいだ忘れ去られたままだったんだろうと感じた。
 便せんに綴られた文字に視線を転じて、ふと眉をひそめた。
 そのときだった。
 部屋の外から話し声が近づいてくるのに気がついた。聞き覚えのある声と足音に無意識に耳を澄ます。躊躇ちゅうちょなく真っ直ぐ部屋へと近づいてきた声は、笑い声とともにドアを開けた。
「……あっ。高見沢、来てんじゃん」
 笑い声から、ちょっぴり驚いた声へ。声の主は、それでも先ほどまでの談笑の名残を声ににじませたまま高見沢の名前を呼んだ。メガネの奧で小ぶりな目が細められる。そんな彼の後ろから、
「……あ、ほんとだ。いつの間に!」
 ひょいと顔を覗かせた桜井がわざとらしく大げさに驚いてみせる。高見沢が顔を上げると、二人は楽しそうに笑いながら部屋に入ってきた。
「まさかいると思わなかった。いつ来たの?」
 高見沢は、壁にかけられた時計へ目をやった。殺風景な壁に据え付けられた時計は、部屋と同じく素っ気ないほどシンプルだった。大きな黒字の数字が配列された文字盤と、シルバーの針が時を刻むアナログ時計。せっせと時間を刻む時計を見てから、楽屋に入った時間など見ていなかったと思い直した。
「ついさっきだよ。誰もいないから俺が一番乗りかと思った」
「高見沢が? そりゃあないよ!」
「絶対ありえないっ」
 半ば本気で言ったのに、二人には冗談に聞こえたらしい。即答するなり顔を見合わせて笑った。そんな二人の反応を受けて、高見沢はふて腐れたみたいに唇を尖らせてみせる。
「俺だって早く来ることぐらいあるよ」
「いいって、無理すんなって。お前の遅刻はいつものことなんだから。昔っからそれは全然変わらない」
「そんなことねぇよ」
「そんなことあるって」
 桜井は、高見沢からの抗議をさらりとかわした。抗議は受け付けませんとばかりに、さっさとクーラーボックスのほうへ歩いていく。坂崎がテーブルの向かいで椅子を引いた。
「まぁ、いいんじゃない? それが高見沢らしいトコなんだから」
 そう言いながら椅子に腰かける彼を見て、高見沢はほんの少し恨みがましい視線を二人へ投げた。
めてんだかけなしてんだか……」
「褒めてんだよ。誰もお前には勝てないって」
 すかさず桜井が、クーラーボックスの飲み物を探しながら茶々を入れてくる。これに坂崎がたまりかねたみたいに吹き出した。高見沢の釈然としない表情を見返すと、ふいに指を指してくる。
「それ」
「え?」
「ここに置いてあったやつでしょ? ……その紙」
 指差された手元に視線を落とす。二人が楽屋に入ってくるほんの少し前に見つけた、くたびれた一枚の便せん。時間の流れとともに薄茶色に変色してしまったしわくちゃの紙は、三人の視線を浴びてもなお高見沢の手の中で静かに息を潜めていた。
 高見沢は便せんから坂崎へと視線を移すと、
「ああ……、そうだけど。坂崎が置いたの?」
「そう」
 彼は意味深に笑って頷いてみせた。
 もう一度手元を見てみる。色あせた罫線に綴られた文字を目が自然と追った。
 ひどい字だった。
 いったい誰が書いたものなのか。ミミズがのたくったような字とは、まさにこのことを言うのだろう。文字と文字が一つの流れのように綴られている様は、一見すれば達筆に見えなくもない。しかし、よく見れば明らかに達筆からはほど遠い。もしかしたら勢いに任せて書き殴られたのかもしれない。英語の筆記体じゃあるまいし、限界を超えて崩された文字は、もはや文字とは呼べない。ときどき罫線を無視してはみ出してしまっていたり、間違った箇所はぐちゃぐちゃと汚く塗りつぶされている有様だ。
 とてもじゃないが、他人様に宛てて書いたものにしてはあまりにもお粗末でひどすぎる。
「ひっでぇ字だな。ぜんぜん読めないし。……これ、坂崎が書いたの?」
 高見沢が苦笑いとともに訊ねると、彼は曖昧に笑い返してくる。
「この前さ、部屋を整理していたら出てきたんだよ」
「へぇ。昔のオンナにでも書いたやつじゃねぇの?」
 高見沢がからかった途端、それまで傍観に回っていた桜井が可笑しそうに吹き出した。なんだよ、と振り返った彼に、
「お前は心当たりないのかよ?」
 桜井がペットボトルから口を離して訊ねてきた。高見沢は一瞬言葉に詰まった。
 まさか自分に回ってくるとは思っていなかったのだ。こんな便せんは記憶にないし、いくら自分が書く文字が二人に比べて汚いと自覚していてもここまではひどくない…はずだ。
 高見沢は当然とばかりに否定した。
「ねぇよ。俺、こんなの書いた覚えないもん」
「だけどそれ、高見沢のだよ」
 否定した途端、坂崎がさらりと言った。自信を持って主張した否定をあっさり覆された。
 予期せぬ展開に高見沢は耳を疑った。記憶にないこの便せんや文字を高見沢のものだと主張する彼の根拠が分からない。
「でも俺はこんなの書いた覚えは全然ないぞ? ラブレター書くにしたってさぁ……いくらなんでもこんな汚い字で書いたりしないよ。これじゃ読めないじゃん」
 加えて、誤字の塗りつぶしだらけ。虫食い状態の手紙を貰っても喜ばれるわけがない。
 高見沢が反論すると、坂崎はまるで予想していたかのようにニヤリと笑った。
「だってそれ、ラブレターじゃないもん」
「…………えっ?」
「ついでに言うと手紙でもない」
「ええっ?」
 高見沢は意表を突かれて目を丸くした。
 いや、言われれば納得はできた。こんな汚いラブレターがあるわけがない。違うと否定されたほうがまた納得できる。しかし、便せんに書かれたこれが手紙でもないとなると話は違ってくる。
 たしかに丁寧にしたためられた形跡はないし、他人様に宛てたものにも見えない。だから坂崎が言うように手紙ではないと言われれば納得はできる。けれども、
「じゃあ、何なんだよこれ? 俺は書いた覚えないぞ」
「……まぁ、これだけ年数経ってりゃ忘れてるとは思うけど」
「酒も入ってたかもしれないしな」
 桜井がここぞとばかりにもう一言付け加える。ますます高見沢は納得がいかないとばかりに眉をひそめた。
「部屋を整理していたときに一緒に出てきたもんがもう一個あるんだよ。すっげぇ懐かしいもんが」
 坂崎はそう言って、隣へ来ていた桜井へ目配せした。すでに前もって打ち合わせていたのか、桜井はいつの間にか一冊のノートを手に持っていた。坂崎は、手渡されたノートをテーブルの上へそっと置く。
 どこにでもあるごくごく普通のキャンパスノート。けれどもノートは、便せんに負けず劣らず汚れていた。表紙には何かをこぼした跡らしく黄色いシミが浮き上がり、端っこのほうは一部破けている。一目見て、このノートも便せんと同じく相当の年数が経っているものだと判断できた。
 そしてこの薄汚れたノートを見るなり、高見沢は自分の記憶の奥底でか細い二本の糸が数十年ぶりに結びついたのを感じた。
「……あっ! もしかして、これ……!」
「そっ」
 高見沢が弾かれたように顔を上げると、そこには二人の満足そうな笑顔があった。
「懐かしいだろ、これ。ちゃんと取っておいたんだよな。連絡帳」
 坂崎が、懐かしそうに目を細めながら表紙をめくる。
 当時『連絡帳』と称したノートには、ライブの反省が鉛筆書きで綴られていた。
 思うように曲が売れず四苦八苦していたあの当時の面影が、ノートには今でも鮮明に残されていた。そしてこの便せんもおそらく……、
「そうか……わかった。この便せん……詩だ」
 高見沢は、離さず握っていた便せんへ再び視線を落とした。
 ノートに書き綴られたライブでの反省同様、便せんにも当時の四苦八苦の跡が残っていた。
 あの頃は、書き綴った言葉一つ一つに戸惑っていた。
 どうすれば想いが届くのだろう。この気持ちをどう表現すれば、ライブに来てくれる人々の胸に刻まれるのだろう。
 想いを言葉にするのは、たやすいようで難しい。
 届けたい言葉や想いは自分の胸の中にたくさんあってそれを表現したいと切実に思うのに、いざ言葉として想いを告げようとすると、どうしてこんなにも難しいのか。
 まるで自分の中にある言葉と外の言葉が、別の言語みたいに感じられてくる。
 心の中にわだかまっている伝えたい言葉たちはこんなにも外に出してくれと訴えているのに、周りに分かってくれるよう伝ようとすればするほど、思うように伝わらないもどかしさに戸惑う毎日。
 一言書いてはペンが止まり、一言書いてはまた消して。形のない想いを『言葉』という形あるものに生まれ変わらせることに、悩んでは書くを繰り返す。
 手紙と違って、書き綴られた便せんの向こうに誰かの顔が浮かぶわけでもない。綴られた言葉たちは、誰に宛てた想いでもない。
 高見沢が便せんに書き綴ったのは、そんな宛先のない手紙たちだった。
 けれども、そうして書き綴った想いは『言葉』として形を得て、やがて『うた』として生まれ変わっていく。高見沢の想いを込めた『うた』には、坂崎と桜井の想いが加わり『歌』へと姿を変えていく。
 そしてついには音という翼を得て、多くの人々の心の中へと飛び立っていくのだ。
「ノートにさぁ、挟まっていたみたいなんだよ。お前が一生懸命、あの頃書いていた歌詞」
 坂崎はそう言って、ページをめくっていた手を止めた。
「どのページに挟んであったんだか知らないけどさ、段ボールから引っ張り出したときに落ちてきて。あんまりにも汚い字でいまだにほとんど解読不可能だけど」
「書いた本人なら読めるんじゃないの?」
 桜井が興味津々な顔で高見沢の手元を覗き込む。高見沢は眉間に皺を寄せたまま、綴られた文字たちを追ってみた。
 ところどころ読める文字もありはしたが、それでも書いている最中に酒でも入っていたのか。おぼつかない文字たちは、今となってはほとんどが読めなかった。
「分からねぇよ。自分でもこの字は解読できない」
 高見沢は便せんから顔をあげて二人に苦笑を返した。
 あのとき綴った想いたちは、今も便せんの中で眠っている。
 あの頃から長い時間が流れて、当時は考えも及ばなかった時間を三人でミュージシャンとして過ごしてきた。その間に書いては世に送り出してきた曲たちも数え切れない。でもきっとその曲たちの中には、この便せんに書き綴った想いの欠片も溶け込んでいるのだろう。
 想いはつねに形を変え、姿を変えては歌となって羽ばたいていく。
 そして今夜も数時間後には、ステージで想いを歌へと乗せる。
「でもまぁ……きっと、こいつがあるから今の曲たちがあるんだよ」
 高見沢は静かに眠る便せんの想いたちに目を細めると、彼らをノートの上へそっと置いた。過去の思い出たちに重なって置かれた便せんは、まるでもともとそこが居場所だとでも囁いているかのように自然な風景の一部として溶け込んでいた。
 坂崎は、懐かしそうに目を細めて便せんを見つめる彼を一瞥してからノートを閉じた。風圧で便せんが飛び出してしまわないよう、優しく気遣うかのようにノートは静かに閉じられる。
「さてと、それじゃあリハーサルにでも行きますか」
 過去から現在へ。時間を引き戻すかのように発せられた桜井の声に、高見沢と坂崎も顔をあげた。
「そうだな。そろそろ行くかぁ」
 坂崎が椅子から腰をあげる。高見沢も、テーブルに置いておいた飲みかけのペットボトルを手に取った。視界に映るノートに目をやってから、
「坂崎、桜井」
「あー?」
 ステージへ行くためドアのほうへ歩いていく二人の背中へ呼びかける。揃って振り返る二人を見るなり、ふと思った考えは確かなものへと変わった。
「今日のセットリストだけどさぁ……」
 高見沢も、立ち止まった二人の元へと歩いていく。
 久しぶりに昔の曲を入れよう。あの頃に書き綴った詩を。
 色あせることのない想いを歌に込めて。
 今夜もステージで歌に想いを乗せよう。


end

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【albireo】 track 05 : 宛先のない手紙
text by : Natsuki Takizawa (from SandHeaven)
image from : 『宛先のない手紙』 (by THE ALFEE)